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夏にあったことは
家族の不始末(といっては可哀相か?)の話を私がつけた
(私は、こういうとき、あまり、滅多に、
人に相談しません。夫が死んでからは特に)
それだけのことに過ぎないけれど
過ぎてから時折思うのは



たとえば子どもが私の横で
なにか危害を加えられていて
近くに凶器になるものでもあったら私は
顔色ひとつ変えずにそれを行使する人間なのだろうな
ということ。少しも躊躇わず。



極端なたとえです でも
時と場合によれば
冷たいものに
進んで支配されにいく
それは怖ろしいことかも
しれないけれど
それ以外の選択をする人もいる ということを
心の奥では信じることができない




母性本能とか人間不信なんて説明はいらない
ただ、これは
一体どこで手に入れた動き?



心が引っかかる棘とか 瞬時に
どうでもよくなってしまうの
それは幸せに倦んだ人が
持っていればいいとさえ
思ってしまって




やはり大袈裟すぎるかな
自分のいちばんいけないところが 夏は
出てしまった気がしました
今までも、いつもそうやって(幸運にも)
切り抜けてきた気も




本当に帰ってこれたのか?
と 何度も辿ろうとする
それも もしかしたらよくないことなのかもしれません。
考えるのはいつも少し先のことの筈でした



後の祭り
たぶんこれ、消したくなります。