若かった頃は、詩というのは多少ともあれ漠然とした隠喩とか暗示とかから或る色
のついた雲のようなもので、味わうことはできるかもしれないが、なにかしっかりし
た世界観と結びつくようなものではないと思っていた。 建築家になって気づいたの
は、若いときの詩の定義とは正反対のことがむしろ真実に近いのではないかというこ
とである。
 建築作品が芸術性を持ちうるのは、多様な形態や内容が一体となって、心を動かす
ような根幹の雰囲気を生むことができるときである。 そのような芸術は面白い形の
組み合わせだとか、独創性だとかとはなんの関係もない。 肝要なのは、洞察、理解、
そしてなによりも真実である。 おそらく詩とは、予期せぬ真実のことなのだ。 
真実が現れるには静けさがいる。 この静かな期待の時に形勢を与えることが、建築
家の芸術的使命である。 なぜなら、建物それ自体が詩的であることはないのだから。
それらはある特別な瞬間に、私たちがこれまで理解できなかったなにかを理解させる
ような繊細な性質を宿すことができる、というにすぎない。
                  

                     ペーター・ツムトア 『建築を考える』

 

なんとなく読んでいて、聴こえてくるものを、どこかで聴いたことがある と不思議
に思っていたら、訳者の鈴木仁子さんは、ゼーバルトを翻訳していた人でした。




W.G.ゼーバルトの『アルステルリッツ』は都市を、建築を彷徨いながら、自分の記憶を探し
もとめる不思議な本です。小説といっていいのか実はよくわからない。
そこには出来事が、歴史が横たわっているのですが(たくさんの写真が挟みこまれています)、
それすら言葉は、人はすり抜けていくのではないかと思わせる。






カウンターキッチンの下の狭いスペースが私の本棚で、そこに入るだけ本を持つことに
していますが、建築や都市の本ばかり残っていくのはどうしてかな。



イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』は、マルコ・ポーロフビライ汗に55の都市を語る
話です。

このような荒れ寂れた周辺区域のどこかの窪みか壁のなかにひっそりと隠れて、そこに行った
ことのある人によってのみそれと知られまた思い出されることも可能なペンテシレアが存在す
るのか、それともペンテシレアとはそれ自体の郊外にすぎぬものであって、そのいたる所に
中心をもつものなのか、結局、理解することは諦めるほかございません。こうして今しも頭を
悩ませ始める問題はいっそう恐ろしく深刻なものでございます。ペンテレシアの外に外は存在
するのか? それとも、どんなに都市から離れて行っても、辺獄から辺獄へと通り抜けてゆく
ばかりでけっして外へ出ることはないのではないのか?


                                  ?連続都市5

都市は記憶です。出ようとすればどこまでも広がり
みな、遠くからやってきて、遠くにすりぬけていく。
遠さを持たないで近さを持つことが出来るのかどうかはわかりませんが。