誰かになる


満席の新幹線に再び揺られているうちに、久しぶりに熱が出ました。
ずっとマスクはしていたけれど、病院で人に伝染していないか心配です。
怪我をした人は麻酔から覚めて、ずっと私の手をはなさずに、
何かを訴え続けていました。
認知症を患っているので、誰かと間違えていたと思います。
2日ほど、誰かになってきました。



ふわふわと帰りついたらこどもは渋谷に仮装しにいくとかで、いませんでした。
ニュースなどで見るハロウィンの扮装をする大人は皆、パーティに行く途中なのだ
と思っていたけれど、今は街がパーティ会場ということらしい。



それはいいのだけれど、深夜、目が覚めて、シャワーでも浴びようかと思ったら
脱衣所に血のついた衣装が投げてあって、血の気が引きました。
ほんとこういうのやめてほしい。



指先だけ冷たいので、まぶたの上や首筋に触ると、とても気持ちがいい。
体温すらそうなのだから、こころの柔らかい部分と頑なな部分が、高齢になって、
そのまま前面に出てくるようになるのは自然なことかな とここ数日会った人たち
のことを思いました。
父は最期まで理性的でしたが、言っても仕方がないと思われていたのかもしれません。
だとしたら少し悲しい。



自分の老後を想像する余裕がありませんでした。
いろいろなことがあったから というより、元々人生設計をしていなかったから
というのが正しいかも。でも私にはそれが合っていた と思っています。



 

こどもが送ってきた電車のなかのテディー