川の本

 野川の土手道で井斐に出会った。子供の手をまだ引いていた。子供はいっそうやつれていた。眼に涙のような怯えが溢れた。それにしては無防備に、見も知らぬ人間の顔を見あげた。道はまだ遠いのか、と私はたずねた。いや、もうそろそろだ、と井斐は答えた。そしてすれ違った。立ち話しにまでもならなかった。私は振り返りもせずに石造りの街の中へ出て先を急いだ。土手道を遠ざかる井斐の足取りを背中に感じていた。人の賑わう街路から、会合のある建物の見当がついて、石畳の小路へ折れたところで、背後の気配は絶えた。そこで足をゆるめて、あの男はもう何年、子を連れて歩いていることか、と年を数えかけると、前方へひとすじ、薄い夕日の差す土手道が続いて、井斐がまた子供の手を引いて近づいてくる。長い影が土手を下って冷い流れの上へ伸びた。おとなしい子だね、と私のほうから声をかけた。これでもすこしずつ元気になっていくよ、と井斐は答えて、風車でも買ってやりたいのだが、この辺に、どこか知らないか、とたずねた。すこし先へ行くと辻のところに、子供の喜びそうなものをいろいろと売っている店がある、と私は川上のほうへ腕をやった。その指先を仰いで子供はかすかに笑った。店の灯が細く点ってあたりは暮れた。土手の上に辻などあるはずもないが、いましがたこの足でそんな辻を風に吹かれて、たしかに通り抜けて来た。道端に屋台が立つ、その仕度に取りかかる年寄りの姿も見えた。
 そこまで一緒に行こうか、と足を停めて振り返った。
 故人の出て来る夢にしてはまるで日常の気分でいた。よくよく知った風の匂いだった。寝覚めした後もしばらく、夢の足取りは先へ行く。夢の中ではいつでも歩いているではないか、と自身の姿を見えなくなるまで見送った。     古井由吉 「野川」

開き癖のついた本があります
ある部分を読んで伏せ、またその部分を読んで伏せておく そのくりかえし
通いなれた小径をなんども行き来しては眠りを待つ姿勢に入り込んでいく
ひらかれていたものがたたまれて、少し下に落ちたその先に
知っているのに知らない未踏の地図がひろがっていて



物心ついた頃、野川の近くに住んでいました。まだ都下の夜が暗かった頃。
夢の中ではいつでも歩いているではないか という夢を私も見ていたい。



アメダスを見ていると、縦に流れる川の中で、浮きも沈みもせずに
日本列島がおびただしい水を受けているように見えます。
不安のない朝は、細い光のような線をたよりに、複雑に入り組んだ日常の扉を押しますが
「明るい目をした者をゆるさない人がいる」
そんな声をどこかで聞いているような気がします。