テンスのもんだい2

                               

何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 

生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時         

殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時             

泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時                

石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時          

求める時、失う時
保つ時、放つ時                

裂く時、縫う時
黙する時、語る時               

愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時              コヘレト3-1〜8




旧約聖書に伝道の書というのがあります。今の聖書だとコヘレトの言葉。
冒頭の文語訳で有名な「伝道者曰く 空の空 空の空なる哉 すべて空なり 1-2 」から
これでもかというほど神の不在を思わせるようなあらゆる現実の矛盾や空しさをつらねて、
空の果てで跪き
「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでも
なお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 3-11 」に至り
「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて。 12-13 」に着地する不思議な書
です。
不可知論とは少し違うような。



むかしから何百回眺めても
これをとき というものへの畏れなのかな としか思えない言えない私こそ
とても空しい。



これに限らず、聖書には時の記述がとても多いです。旧約・新約というように神との約束が
記されているのですから時が重要なのは当たり前といえば当たり前かも知れません。
ただ、旧約聖書は古代ヘブライ語で書かれていて、この言語は時制(テンス)がないという
のを知るとなんだか不思議な気持ちになります。



これはことばのうえのことですし、もちろんテンスが無いからといって、過去−現在−未来
に言及できないなどということはありません。
時間を表す補語がありますし、相(アスペクト)というものがあります。
アスペクトというのは何と言ったらいいのかな?
はじまりとおわりのある動きの動詞の表し方のようなものです。
動詞自体に時間のもたらした状態を語らせるというか。
英語の現在完了形というのはテンス(現在)とアスペクト(完了)が手をつないだものと
いったらわかりやすいでしょうか?



古代ヘブライ語アスペクトは完了形と未完了形のふたつだそうです。
既に終わってしまっている状態を表すのが完了。
未完了は終わっていない状態。
終っていないからといって継続を表すとは限りません。
途切れてしまったもの 常に在るもの 繰り返すもの 永遠なるもの 未来にはじまる
もの あるいは願望 預言まで含むのではないか。



何事にも時があると言うとき
永遠を思う心と言及されるとき
ある預言がなされるとき
それはどのような形をもって書かれ
それをどのように私は私たちは受け取ってしまうのだろう?と思うわけです。


その日には
家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ
窓から眺める女の目はかすむ。
通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。
人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い
アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。
白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。
塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。    コヘレト12-3〜7


未完了というのは揺らぐことかな と。   
  
          (続きます)