焼くや藻塩の


ここに着いてまだ海を見ていない


二階の庇の向こうの瓦屋根の連なりの先に神社の松
物干し台にはあおむけの蝉の屍骸
外はこんなに乾いているのに
この古い畳が沈み込むような湿気は
どこから来たのだろう?



子ども達はすっかりこの地の文法に馴染んでしまっている
何かの擬態なのかと思っていたけれど
どうやらそうではないらしい
娘は明らかに潮の味のする水を際限なく飲んで
決して泡立たない水で洗った衣服を
乾かないまま身に纏っている
今日は息子までが
「海の藻屑と海のもずくとは違う」などと言い出した



どこからでも湧き出る潮の香りの水
誰も海を見に行こうと言わない



海に行くには北側の木戸を出て
蛸の足のような路地を逆に辿って
蛸の頭にあたる神社に出ればすぐ
人二人すれ違うのがやっとの
暗い路地には見過ごしてしまいそうな肉屋もある
暗い無人の店内の奥のショーケースに
打ち捨てられた静物のような
鶏肉とハムのようなもの
二階から見る風景は乾いていたのに
板囲いの塀にさえ滲んでいる
閉じこもる人の気配



神社に行き当たればやっと空は開ける
向かいは
歌人の妻のような人が
四季咲きの薔薇を育てている庭園
まばらな小さな花の陰に
見え隠れする小さな頭
真水の町で育ったような顔をして
握る剪定鋏
衰えた腕に浮かぶ結晶



何かを咲かせるために何かを摘む勘所
移植されたことを忘れるための
方便のような
その鋏の使い方は間違っている



この先は防錆剤とトタンと
灰色の狭い砂浜しかない
むしろここが広義の海なのだと
歌人が現れて
厳かな手つきで境内に篝火を焚く
炎上し身をよじる
藻屑あるいはもずく



結晶取りの手に残る結晶
しかしこの文法ではこれ以上辿れない
燃える上昇気流に
上空の雲が不意に流れ出したとしても
雨すら潮の味