響く音



かなり変なことなのか、それともよくあることなのか
ある種の文を読むと音楽のようなものが頭の中で響きます。
音楽ではないんです。
コードやフレーズが変わる瞬間のふっとした感覚みたいなもの。
あることばとあることばのつながりが頭の中の同じ部分を刺激し
ているのでしょうか?



子どもの頃、習っていたピアノ教師は
「この手は誰が教えました?」とか言いながら突然定規で手を叩く
ような人で、何ゆえに趣味で習っている小学生にこのような高圧的
な指導を?と今でも時々不思議に思いますが
当時は「この先生は私の態度が悪いからこのように振舞うのだろう」
と思っていました。
実際私は先生もピアノも大嫌いになっていて
金曜日にレッスンがあったのですが、水曜日あたりから胃が痛い。
それでも意地でも練習しないで出かけて行き、恐ろしい先生の視線
を背後から感じつつ、新しい曲などは初見で弾く。頭の中が真っ白
になり楽譜だけが浮かび上がる緊張感。
当然途中でつっかえて腕組みをした先生に怒られる。
「もういいですっ!」と言われて途中からコールユーブンゲンを数
分見せられてそれを歌わされる。
先生も歌う。(声は素敵でした)
「もっと大きい声でっ!」と言われて私も声を張り上げる。
お互いに非常に不機嫌なのでそれはもう常軌を逸したコーラスだった
ような気がします。



親に辞めたいとは言いませんでした。先生も辞めなさいとは言いませ
んでした。
結局中学までこのようなことを毎週続ける私の強情さもさることながら
日常会話というものを全くしようとしない先生も凄く頑なだったと思
うんです。
受験を口実にピアノを辞める時「もう一生ピアノを弾く事はないだろう」
と思いました。
そのその後にJAZZにはまったりして真似っこ遊びで弾くことを覚えてし
まいましたが
あのような緊張感を持って1人の人に聴かせるためだけに頭を真っ白にして
楽譜に向かうことはもうないだろうと。



ことばに躓いたとしか言えないような状態になったのは高校に入った頃です。
1ヶ月とりつかれたように日記を書いて辞めた時には非常に口数の少ない人
間になっていました。
何かの観念に取り付かれたわけでも、難しいことを考えていたわけでもあり
ません。
それなのにことばに置き換える装置が自分の心に触れる部分を全てはじく
ようになったとでも言うのでしょうか?
無意識のうちに人というのは会話においてとても無造作にしかも細心に心と
取引し、いろいろな手順を踏んでことばを並べていくんです。
結局ことばというのは認識のための装置なのだな。と思いました。
ひどいものだと。
ある種の失語のような感じだったような気もしますが、表面上は日常生活に
支障はなく、「ふうん」「そう」「べつに」「まあね」しか言わなくなっても
友人は去らずにいてくれて(彼らも彼らの問題に精一杯だったと思う)
それでもこれではあの会話のないレッスン時間が日常に転換したみたいで
やはり結構つらかったのかな。
録に喋らないながらも高校時代に結構学校内外でいろいろな経験をしている
のですが、白くもやがかかったみたいに風景以外の記憶が曖昧です。
読書感想文の課題はとても困りました。
「一応読んだが、今の私に感想が書けるとは思えない」と一行だけ書いて提出した
覚えがあります。
他にも身も蓋もない一言というのを相当やらかしたようなのですが、
顛末をあまり覚えていないということは周囲がとても大目に見てくれていたって
ことでしょう。



で、言葉を読んでいてその音楽めいた感じがし始めたのはこの頃のような気が
するんですね。
高校を卒業する頃にはことばも涙も普通に出るようになって
(変な認識の仕方やことばに身構える癖は戻ってないような気もしますが)
四年間の猶予期間を経て仕事に就き、今や主婦の立ち話だって軽くこなせる私ですが
その感じは今も続いています。
今更医者に行くのも変ですし、これが文章の好悪やことばを話したり書いたりすること
に影響しているとも思えないのですが、
脳科学的に精神病理学的に説明がつくなら今なら素直に教えを請いたい気分です。



日記を書くのは高校以来です。
日常を翻訳するだけで揺れる私とは何なのだろう?とときどき考えます。
しかし現実がこんなに私を揺らすのに、揺れずにやり過ごせるとも思えないんです。
そしてこれだけ遠くまで来たような気がするのに自ら自分を揺らす手段が他に思い
浮かばない。ひどいものだと再び思っています。
今回はうまく渡りきれますように。