何を連れて


昔、逢った人の話をします。独り言みたいですが。
夫の伯母さんはどんどん店の立ち退いていった都心の一角に居を構えて
いました。           
はじめて訪れた時、このような場所にこのような古い作りの平屋がある
ことに驚きました。
日本家屋に洋風の暖炉のついた応接間のある昭和初期のような作りなの
です。
仏壇のある部屋にはご主人と息子さんの写真が飾ってありました。
若くして子どもを亡くした伯母さんは夫亡き後、お手伝いさんと暮らし
ていて、上京して近くに下宿した夫は当初、何から何まで世話になった
のです。



伯母さんは丈夫な体格と大きな手を持った人で、私と同じ誕生日、丁度
50才違いだということがわかる頃には、すっかり魅入られてしまいました。
彼女にというよりは彼女の生活に。
亡くなった彼女の夫は古美術商でしたが、古い家には応接間に一つ油絵が
かかっている以外は余分な装飾が全くなく、
大きな池の周囲に見事なほどのつつじとほんの少しの草花を配しただけの
庭も、床の間の花も簡素でいながら人の手の入ったもので、そこで起居す
る生活の全てが恐ろしく品良く見えたのです。
(私は実家がそうなのですが、季節の花の咲き乱れる庭は少し苦手です)
庭ひとつ、料理の仕方ひとつとっても、経済的な基盤やその人の長い暮ら
しの歴史があって作られたものだったのですが、当時の私にはわかりませ
んでした。
ただ「この人はこの大きな手でこんな空間を作って暮らしている」と思い、
食後延々歩いてホテルのティールームにコーヒーを飲みにいくのに付き合
いつつひたすら驚き感心していました。



彼女は80過ぎて家を処分し、夫の両親のいる地方都市である生まれ故郷に
帰りました。
地価の殆ど上限だった頃です。息子が産まれて海の側に引っ越した私達は
あまり頻繁に訪問できなくなっていました。
引越しの手伝いに行くと「世話になったから」とオパールの指輪を無理や
り渡されました。お世話など何一つしていないというのに。



その後、渡米したりして帰省することがかなわず、引越し先のマンション
を訪れたのは数年後です。
バブルは完全に崩壊し、その地方都市の高層マンションは転売目的の購入
が多かったのか人の生活の気配が殆どしませんでした。
彼女は見た目は少しも変わらず特に息子との再会を喜んでくれましたが、
最上階の彼女の部屋を見た私はショックで気もそぞろでした。
重厚なダイニングテーブルにごちゃごちゃとマイセンで埋め尽くされた
飾り棚、金とピンクとグリーンの緞帳のようなカーテンにペルシャ絨毯。
ピンクの花柄の壁には「可愛いから」と選ばれた、藤田や平山郁夫の油
絵や刺繍の花の額や夜店のビニール人形がかかり、木彫りの等身大の子
どもの人形や月に子どもの乗った置時計やリヤドロの子どもたちや


義母は困り果てたように「来客が来ると大切な物が無くなったと言うよ
うになって…」と言いました。
「外商の人に薦められると何でも持って来させてしまう」とも言ってました。


これはそういう病の仕方ない症状であり、環境が変わってしまったことが
作用したのかも知れないと当時も頭ではわかっていましたが
人はこんなにも脆く、美意識も脆いものだということを誰かに否定しても
らいたい私がいます。
全然彼女のことを知ろうとしなかった罪の意識のようなものも。
私の憧れた彼女の生活は淋しさに彩られていたのだろうか?
油絵や人形の子どもたちはどこか私の息子に夫に、誰よりも日本間の写真
の彼女の息子さんに似ていました。
最後に残るものは結局、愛と絶望だったりするのだろうか?(否定してもら
いたい私が今もいたりします)


伯母さんは弟妹家族に囲まれてお気に入りを買い足しながら暮らし、数年後
に亡くなりました。
夥しい瓦礫(比喩ではなく、彼女は壊しながら購入していたのです)を片付
けるのが大変だったそうです。
都心の彼女の家はどこかの企業の社屋になって跡形も無く
「優しい人だったね」と私達は話し合うことができます。
オパールの赤とグリーンのフラッシュを見ると色彩の入り乱れたあの部屋を
思い出すので
古い形の指輪はサイズをなおすこともしないでいます。