河口にて


海におりる坂道は風が吹いているから
潮のかおりがするから
遠い人 忘れ去りたい人の
記憶は途切れていく
海に入る階段は暗くて悲しいから
夢の覚め際のように覚束ないから
いっそ冷たさばかり纏いつづけたい
狂っているよ と呼びかける声が
さっきまで絶え間なく聞こえていたけれど
あれはやはりあなたでしたか おじさん
私は今も悪い夢から覚めなくて
花を持って逢いにきては
花だけを枯らして戻ってくる
坂の途中であなたのことを思い出して
ほんの少し笑ってしまうこともあります
遠いおじさん



誰にもしたことのない
今朝見た夢の話をしましょう
満ち潮が足をすり抜け
川を駆けのぼる未明のこと
いつ覚めるともしれぬ遠い意識の沖で
いま眠っている魚達のこと
夜明けのほうを眺めながら
潮の変わるのを待っている間は
彼らの夢が私たちかもしれない
そんな他愛のない話をしましょう



私の気休めを信じてくれないから おじさん
あなたは橋の上で 私は河口で
今まで何度不幸な朝を迎えたことでしょう
萎れた顔をして川をさかのぼる
記憶の残骸
花々の死



狂っているよとあなたがいうから
打ち消しあう波を見つめるだけの朝だから
わけはいえない もう
いいでしょう もう帰りたいのよ おじさん
なるべく深い色になって