諦観を肯定と言い換えれば
少しだけ不安定に未来を踏むことができる。
不安定な未来の足場、これ以上得難いものが他にないと思ったときはそうするものなのでしょう。
数日、数ヶ月、数年、数十年まで頁を遡って
数枚を破りとることも造作もないことなのかもしれない。




ただ それをしない
しないのです




欲望 と呼んでいいものかどうか わからないけれど
私は私の感受性?のようなものをおそらく
もう少しかまってやりたい とどこかで思っているのでしょう。
それに飽きてしまったら本当にもうお終いなので。




それは、織ると何故か介在してしまう自分に
心底うんざりしてしまう言葉に於いてではなく
できれば普段の生活のなかで為されるといいな とも
思っています。
難しいですよね。難しい。