葬儀があって、H市。
家族3人で一日行動するのは何年ぶりか でした。
子ども2人はバラバラに帰京し、私は残って手伝いなど。
心配事は、他のものと一緒に、ずっと持って行くのかも。






喪は緩慢な作業によって徐々に苦悩を拭い去ると人は言うが、
私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない。
私にとっては「時」は死別の悲しみを取り除いてくれる、ただ
それだけにすぎないからである。(私は単に死別したことを
悲しんでいるのではない)。それ以外のことは、時がたっても
すべてもとのまま変わらない。というのも、私が失ったものは、
一個の「形象」(「母」なるもの)ではなく、一個の人間だから
である。いや、一個の人間ではなく、一個の特質(一個の魂)
だからである。必要不可欠なものではなく、かけがえのない
ものだからである。私は「母」なしでも生きてゆくことができた
(われわれはみな、遅かれ早かれそのようにしている)。しかし
私に残された人生は、確実に、最後まで、形容し難い(特質の
ない)ものとなることであろう。


ロラン・バルト『明るい部屋ー写真についての覚書』

こちらに来る前、フェリーニの『道』を見ました。
ブランコ乗りがジェルソミーナに、
「どんなひとつの石にも役目がある」と言うところで
いつも泣いてしまう。 (苦手な映画です)


登場人物は石ころのように死に、
残った男(彼も石ころのように死ぬでしょう)の涙を、
スクリーンの外側にいる私たちは
人間性だの贖罪だの心だのと言うのです。




たとえ、石ころのようには死なない と思っていても
どんな死も事実としての平板さからは逃れられないかも
知れません。
ただひとつだけ とても単純な方法があることが
多くの人から もう何度も示されている と思う。