メモ3

ドイツ詩は、わたしの考えでは、フランス詩とは別の道を行くものです。
この上もなく暗澹たるものを記憶裡にして、この上もなく疑わしいものを
身のまわりにして、ドイツ詩は、その伝統を現代化しながらも、幾多の耳
があいもかわらずそこから聞きとりたがっているような言葉をもはや話す
ことがありません。ドイツ詩の言葉はより冷静なものに、事実に即したも
のになりました。それは「美しいもの」を疑い、真実であろうとします。
つまりそれは、いかにも当世風な多彩さに目をとめながらも、視覚的な
領域に表現を求めることが許されるならば、「より灰色の」言葉なのです。
つまり、この上もなくおぞましいもののかたわらで多少なりとも無神経に
鳴り響いていた、これまでのいわゆる「美しい調べ」とはもはや何ひとつ
共通するものがない場所にとりわけその「音楽性」が据えられることを
欲する言葉なのです。


この言葉にとっては、表現に多義性はつきものですが、それでも精確さが
問題です。この言葉は美化されず、「詩化」せず、名づけ、規定します。
この言葉は、所与のものや可能なものの領域を測定しようとします。もち
ろんここでは決して言葉自体が言葉それのみが働いているのではなく、
輪郭づけと方向づけを求めて自分の存在の独特な勾配の下に語っている
「わたし」が働いているのです。現実は存在しません。現実は求められ、
獲得されるのです。


  パウル・ツェラン 「パリのフリンカー書店主のアンケートへの解答」



昨夜は友人の家に行って、広島出身の彼女の伴侶から「広島風お好み焼き」の
作り方を教わって2枚焼き、一枚をこどもに持ち帰ってきました。


私の(言葉の?)なかにある軽さ、軽さへの志向を失うことはできないという
気がします。これがなければ私は私にとってもいないも同然なので。