10年ぶりくらいにフランス人の知人一家が遊びに来ました。
夫の友人で、私の知っている唯一のフランス人ですが、ベトナム系で、芸能好き、
藤田まことファン(それも、時代劇ではなくて、なんとか刑事なんとか派とかいう
ドラマの藤田まこと)というかなり日本通?のひとです。
ホットプレートであれこれ焼いてごはんを食べました。


オランダ、ベルギーとあちこちで仕事をしていたそうで、「わたし、日本語忘れ
ました。」と言ってましたが、お喋りは健在で、落語の知識に至っては私の100倍くらい
あり、芝浜の話が途中から文七元結になる私が話相手では申し訳ないくらいでした。
10年前は独身でしたが、和食好きの素敵な奥さんと彼によく似た賑やかな7歳の娘さん
も一緒。娘さんはうちの娘と写真アプリで遊んできゃっきゃと笑っていました。
「幸せなのが嘘のような気がします。」「kは幸せですか?」



不幸じゃないです。と笑いました。
お客さんがくるので、普段しないベランダの掃除などしましたが、スチームクリー
ナーというのをはじめて使ってみたら、劇的に短時間でタイルの目地の汚れが落ちて
病みつきになりそうです。もっと早く使えばよかった。
たまには人を呼ぼうと思いました。こどもの友達だけじゃなく。






窃盗を疑われている労働者をめぐる古い小話を思い出そう。毎夕、工場から帰るとき、警備員達は彼が押している手押し車を丹念に調べたが、何も見つからなかった。手押し車はいつでも空だった。ついに警備員たちは突き止めた。彼が盗んでいたのは手押し車だったのだ。この反省的なひねりは、コミュニケーションそのものに特有のものである。コミュニケーション行為の内容に、行為そのものを含めることを忘れてはならない。個々のコミュニケーション行為の意味は、それがコミュニケーション行為であることを再帰的に主張するからである。無意識がどのように機能するかについて、これが最初におぼえておかねばならないことである。それは手押し車の中に隠されているのではなく、手押し車そのものなのである。      ジジェク 「ラカンはこう読め!」

大文字の他者の欲望がどれほど主体の生成に必要なものであるかは、その欲望を絶望的な形で立証しようとする一群の人々が最も雄弁に物語っている。彼らは分裂病者と呼ばれている。彼らは大文字の他者の欲望をまさに我が身の上に感じとったとき、はじめて自分が生まれることが出来たと感じる。何かもやもやとしていたものが晴れ、一気に自分が自分に対して透明になる。しかしそれが分裂病の発病である。妄想を特徴づける最も重要な性質である「確信」は他者の欲望への確信であると同時に己れの存在への確信でもある。ただその確信は、いったん言葉で言いあらわられてしまった以上、まわりの人々の同意を得ないことには真理にならないという質を帯びてしまう。だから彼らは、他者の欲望について、人々に語りはじめずにはいられない。   新宮一成 「ラカン精神分析

精神分析的なものが苦手なのは、苦手な叔父にこどもの頃いろいろテストをされた
という経験が大きいかも知れないです。一緒に受けた従兄弟は吃音がますます酷くなり、
碌な経験じゃなかった。叔父も学生で未経験だったので。
当時のもやもやを言葉にできたとしたら、「人を分析家にしようとするな」 とか
「まず自分のその分析したがる欲望をどうにかしろ」みたいなことだったかも
知れません。答えのない問いの意味が全くわからなくて不安と不快な気分だけが
残りました。



大人になって、自分達が何をされたのか知りたくて、ちょっと本を読んだりもしたけれど、
お手上げでした。
マトリックスは面白かったけれど。
ただ、私の考えるようなこと(これまでも、これからも)は全部説明されているのだろうな 
ということだけわかりました。