メモ

自らを空虚にすること。無であること=すべてであること=存在すること。 死の重力、忘我、放棄、そして同時に、この奇妙な実在が、またわれわれ自身でもあることの瞬間的認識。 わたしを退けるものが、わたしを惹きつける。 あの<他者>はまたわたしでもあるのだ。
もし<他者性>に対する戦慄が、いかにも奇妙で、われわれとは無縁に見えるものとわれわれとの究極的な同一性の予感によって彩られているのでなければ、その魅惑は説明がつかなくなってしまうだろう。 静止は落下でもあり、落下は上昇、存在は不在であり、そして恐れは、深くて攻し難い魅力である。 (略)<他者>の中へ落ちこむことは、かつてわれわれがそこから引き抜かれた何かへの回帰として現れる。 二重性は消滅し、われわれは彼岸にたどりついている。

時として、はっきりとした根拠があるわけではないが ―われわれがスペイン語でporque si(だって、そうだから)と言うように ―、われわれには、われわれを取り巻いているものが、本当に見えることがある。そして、そのヴィジョンはそれなりに、一種の神の顕現、あるいは出現なのである。というのは、アルジュナの目の前に現われたクリシュナのように、世界がその壁や深い淵をともなってわれわれに啓示されるからである。
われわれは、毎日、同じ道を通り、同じ庭を横切る。そして、いつも夕方になるとわれわれの目は、レンガと都市の時間からなる、同じ赤っぽい壁に出くわす。しかしある日突然、道は別世界に通じ、庭は誕生したばかりであり、くたびれた壁が記号でおおわれる。それらはわれわれがそれまでに見たこともないものであり、その有り様 ―その圧倒的な現実性― はわれわれを驚嘆させる。そして、他ならぬその緊密な現実性がわれわれに疑問を抱かせる ―事物はこうしたものだろうか、もっと別の現われ方をするのではなかろうか? いや、われわれが初めて見ているこれは、すでに以前に見たものなのだ。どこか、おそらくはわれわれが一度も行ったことのない所に、その壁も、道も、庭もすでにあったのだ。こうして奇異感に次いで郷愁が湧いてくる。何か記憶が蘇るような気がして、あそこへ、つまり、事物が常にこの上なく古い光を浴びていながら、同時に、いま誕生したばかりの光に照らされているような所へ帰りたくなる。われわれもまた、そこからやって来たのである。


「彼岸」  (オクタビオ・パス 『弓と竪琴』)