実朝の時代のことは中高の歴史の授業と、あちこちにやぐらや首塚があって掘れば骨が
出るといわれていた土地の記憶の中にしかありません。ただ、狭い土地なので想像だけは
できます。
文化(だけ)を握り続けていた都から遠く、法すらわかりやすいことばでわざわざ制定しなけ
ればならなかった田舎武士のつくった場所。
その場所の歴史や個人の生には「どうしよう」とは思わない。
思うのは俯瞰して見せられたものだけだと思いました。


この「どうしよう」がどこから来るのかをだらだらと抜き書きしてみました。
私的なまとめ。きっと誤読している。






二重の権力のひとつであった幕府の内部で、更に二重の権力の一つの駒であった実朝が
本歌取りという作歌法をとりながら、同時代の歌人達の誰とも異なる「なにを詠んでも<事実>の詩となってしまう」歌を詠んだ。
「万葉ぶり」と呼ばれるが、万葉を模倣したから万葉詩人なのではなく、いくつかの秀歌
が<和歌>形式の古形を維持しているように見えるからである。<和歌>形式の古形とは、その詩的表現が、その発祥の初原でもった本質的な特徴のことで<景物>が個人の観念の表象であるよりも<共同>の観念の表象であることで、

<和歌>形式の詩的表現が、完全な叙景である場合にも、ある事柄の<暗号>でありうること、
また、<叙心>(思想をのべること)であるときには、きわめて単純なことしか述べえない
ことに帰する


ことをいい、
上句または下句の<叙景>を、まったく無意味化(一首の詩的意味に関係ないものとすること
序詞の無心の序のように)することを経て

上句は下句にある一首の<心>を誘導するための<暗喩>として使われている。そのかぎりでは、
すでに無意味な叙景とはいえない。ただ詩の心棒である下句に<含み>をそえるものとして
不可欠のものとなっている。


という形で完成する。






古今集の時代には、この本質的な特徴は全く変容し、<物>は共同の表象でありえなくなり、<物>そのものでも<心>そのものでもないなにかの<象徴>があらわれる。
その<象徴>は、たとえば、着想とその背後にある着想せざるをえない<心>を推測せしめる
ことによって成り立ち、景物は詩的な規範にのっとった空想、つまりほんとうの意味での<景物>ではなく、<景物の象徴>を叙した言葉 となった。

古今集』にはじめてあらわれたこの詩的な<規範>は、たんに唐詩の風体の模倣からきた
外形的なものではなかった。詩の言葉が、現実の体験とのつながりをうしないかけたときに
必要な、あの<規範>という意味をもっていたのである。詩の言葉が現実の体験とのつながりを
はなれるとき、無際限に翔び去ってしまうのを引きとめるものは、かつて現実に体験したこと
があるとか、現に体験しつつあるとかいう<空間>に限定された想像力の圏ともいうべきもので
あり、これが詩の言葉を<規範>として繋ぎとめる。この<規範>が崩壊すれば、詩の言葉は、
はじめのひとつの言葉からおわりのひとつの言葉まで、<無意味>なものに転化することで、
かろうじて詩をささえるようになる。『古今集』は、はじめて、<和歌>形式のなかでこの詩的
問題にぶつかったのである。

 (つづきは明日)