つづき

たとえばサラエヴォあるいはベルリンー儀式的に殺害され、あるいは苛酷な分断を経験したこれらの都市を、そこに生まれたわけでもなく、暮らしたわけでもない者が突然に、「私」の都市、「私」の記憶として見出すことが可能になるのは、まさに都市がつねに、「私」の記憶の他者であるからだ。逆に、或る土地に生まれ育ったという自明で自然なつながりだけによって、或る都市が「私」のものとなることはない。いかなるかたちにおいても、いかなる都市の固有の集合的記憶とも、私が自然な、自発的な記憶の絆で結ばれることはついにありえないからこそ、或る都市をーしかしそれは任意の都市ではないー私は私の記憶として運命的に想起する。都市の/都市という記憶への接近は、宥和的で創造的な営みであるよりもはるかに、危険で致死的な陶酔をもたらしかねない他者との遭遇なのである。 (前出)


その本は読む者を遊歩者にする






今週こどもは学校からの内部進学の電話を9時から7時まで待ってから
バイトに出かけるという生活をしていました。
暇そうなので編み物を伝授してみたけれど、かえってストレスがたまった
そうです。残念。




きのうの夜7時前にやっと電話がきて、こどもは解き放たれたように友達のもとへ
命日だったので、私はお供えのケーキと花を買いに行きました。
好物だったケーキは日付が変わってから食べました。
「太る」とかいいながら。