地形図や地誌を読むように


ことばを読んでいるときがあります。
橋をわたり、海岸線を巡り
高低差をはかっているうちに
重層化している知らない街の


知らない間に音楽が流れています
記憶の中の既にない都市がいちばん音楽に近い



都市が心的装置の隠喩でありうるとしたら、それは都市がマジック・メモのように、周期的に自己を消去することを通じてはじめて、記憶痕跡の記載される空間を生み出すからであり、そこにこの機械的な二進法のリズム*1が刻まれるからであろう。   (略)
記憶そのものを可能とする死、その死の記憶、記憶の死としての忘却、そして、つねに既に忘却された、根源的に欠落した記憶をめぐる想起の運動とその空虚の周りに展開される無数の表象代理の連鎖ー死の欲動を内包した記憶機械としての都市は、心的装置同様に、忘却され、欠落してしまった無数の何かを保存しつづけるアルシーヴである。そこにはいわば、記憶の不在そのものが書き残される。かつて存在した歴史的事実ばかりがこのアルシーヴに書き込まれるのではない。やがて「あったことになるであろう」出来事、未来完了形で語るしかない出来事もまたそこに蓄積されている。その意味でアルシーヴとは、いつか「いたことになるであろう」幽霊のような他者たちの記憶の場である。事後性とは、この未来のアルシーヴ化を支える時間構造に他ならない。  「都市表象分析1」田中純

二ヶ月ほどずっと探していた文を今日は見つけてもう一度読みました。




                                       

*1:「真理はなにか生けるものになるが、このような真理が生きるのは、命題と反命題が相互に入れ替わることによって、相互に思考の対象としあうようなリズムのなかでのみである。」ベンヤミン「パサージュ論3」 遊歩者は両義的な「真理」のこのリズム、二進法の反復のリズムに酔うのである。(注 は私がつけました。)