遠い草はらで虫がないているね。
あれは月の光が静まったあと
得体のしれない人のことばにも耳をすましてくれる人
のいる夜でした。
私は(人は?)ことばで世界をつかんでいるのではなく
いま触れているものが世界であると 自分に知らせるために
ことばを必要としたのではないか という気がします。
非定形の自分を「得体が知れない」と自分で思って
しまわないために。
(違うかしら?)
虫の声を聴きとれない国の人がいるように
私の可聴域では触れることのできない
ひとつの数千の世界たち
時間に無言を置いて 引き返すそこにも
遠くなくものがいる。