ことばで考えない という筈はないし、決して私から離れていくことばに
好き勝手させない とも思っていないのに、ことばの重心に従ってことば
の身体を動かすことは、絶望への最短距離か、みみっちい虚偽になる という
かんじがぬぐえないときがあります。
この感じだけは、昔からあまり人と共有できたことがありません。
精神的な固執のようなものかも。
ある部分だけ検閲のとても厳しいイマジナリーフレンドを一匹(人扱いしない)
自分の中に飼っていて、でもそれがいなくなったら書く必要もないかも
しれないとも思う。
(音のするほうにきっとどこまでも逸れていく。)


この検閲さえ抜ければ他者はことばの理解において狭量な私より遥かに上等です。
そして優しい。誤解や伝わらなさに於いても。
自分を哀れんでいる訳ではなくて、本当にそう思う。



連休前半は、球技大会でこどもが怪我をして松葉杖になったり、子どもの友達が
泊まりにきたりして慌しかったのですが、今日の午後は、家中のカーテンを洗濯して、
開け放した窓に再びかけて乾かしながら、犬と昼寝をしたりしました。


ドストの「白痴」を読み終わりました。、一気に長い本を読む気力はもうないと
思いました。