徒然


こどもは悲しさとはこういうものだとことばで学ぶものです と昔、言われました。
アンデルセン小川未明はそのためのテキストです と。
そのようにして学びながらも、悲しむには能力がいるような気がしています。
ことばの鎖を全てはずしてそこに浸るような。
その後、何を最初に手に取るかは、私であって私でないものに半分委ねられている気がします。
手に取ったもの以外は時間と共に忘れていくので、とても大切な筈なのにね。
ただ、手に取るものは少ないほうがいい。


悲しさはことばと結びつき過ぎたのかも知れない。
自己憐憫 というのはことばを使った娯楽です。
だからいくらでも繰り返すことができる。酒の席での悪口と一緒。
(自分自身に言っています)




今日はよく眠りました。


その街の表通りから一本入った小道にその店はありました。
緑青のふいたスクラッチタイルに覆われ、窓枠にはイラクサのような植物のレリーフが象られ、
小さな縦窓のショーウィンドーには古い鍵が一本飾られていて、何を商う店なのか
一見わかりません。
お客さんは皆、一人で少しうつむきながら青銅の鎧のようなドアを押します。
そう。ここは、眠りを扱う店。思う人に眠りを贈答することのできる店です。
ある人は恋人に、春のはじめの雨の午後の転寝を。また、ある人は老人に
子どもの頃の遠足の前の日の浅い眠りを。
どのようになっているのかは秘密ですが、店にはまるで調香師のように眠りを扱う
ソムリエがいて、その店の二階に通された客はさまざまなメニューからひとつ、
贈る眠りを選べる代わりに自分の眠りを置いていくといいます。
しかし、





しかしって何だ?(B級映画調)


眠りが贈答できるものだったらいいのに とたまに思います。
補うための眠りではなくて、夢も見ない明日までの眠りを贈られたいし、贈ってみたい。
でもそれはとても恐ろしいことなのかな。