向こう岸が視る夢

わたしが過去の街を再現しようとするとき、いつも心の尺度になったのは、街の縮み具合であった。少年の頃の街は、大人になってゆくとなぜか縮んでみえる。たくさん歩いて行ったはずのところが、ほんのひとまたぎといった距離になっているし、相当の大きさだとおもった学校は、マッチ箱のように小さくなっている。わたしはどうしてだろうか、といつもかんがえた。そして、じぶんの眼の位置とか、歩幅とかが少年の頃にくらべて高く大きくなったからだ、と思おうとした。しかしこの考え方には難があった。少年の頃は、いまより脚力があったはずだから、街の隅々へゆくのにそんなに時間が疲労していたはずがない。ほんとは空想のなかで、無意識のうちに少年の頃の街は、実際より大きく拡大されていたのではないか。そして拡大させたものは、わたしが意識的には拒否してきたはずの回顧的な心情なのではないか。まだある。少年の頃には、住んでいた街は、世界の全体であった。そこから出かけてゆくのは、滅多にはない異域へ改まった格好でゆくことであった。世界は年齢とともに拡大していった。もう、街から出かけてゆくこと、住居から離れることは、異域へゆくことではなくなった。それとともに街は、わたしの空想のなかでも、実際にも、だんだんと小さく縮まっていったのではないか。その果てには、街の喪失が待っている。おまえの街はどこかと訊ねられても、いまのわたしは、ここだというべき場所をもっていない。多少の懐旧の心情をまじえれば、少年の頃の街が蘇ってくるが、いたるところの十字路や露地すじに、悪い表象が立ち塞がっている。それを避けようとすれば街のすべてを拒絶するよりほかない。幻想の首都をさがして、いくつもの街を通り過ぎてきたような気がするし、少年の頃の街も、何べんか縮まり変形してきたような気がするが、心象のあちら側に、何か気配のようなものが感じられるかぎり、そこを目指すよりほか仕方がない。知りびとたちは死に、腐敗した透明な空気に変身している。  
                  
                  吉本隆明 背景の記憶 『縮んだ街』