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..........................................................................................回廊の緑の光



世界への応答としてことばがあるなら
誰かから誰かへそれが伝わるには
一旦世界を経由することになります
これでは複雑になるばかり
こういう考え方は孤独でしょうか
承認や共感によって人が癒されるというのは
本当にその通りなのだけれど
それはもしかしたら途上にあるもので
人が(あなたが)本当に自分でも気付かない程
深い場所から癒されるのは
世界への応答を重ねることによって
ある種の納得を得られたときではないかと
思ってしまうのは



その納得が決して得られないであろうと思うことが
どれほど怖くてことばを失うほど悲しいか
(悲しいというのはこういう時に使っていいのだと思います)
私はどこかで知っているような気がするし
その納得を得るために 人がどれ程苦しい思いをして
辺境にまで出かけていくかも
見たことがあるような気がします



ときに無限の解をはらんだり 求める運動になったりもすることばは
その納得の後、どうなるのだろう?
その場からは飛び去るけれど
去ったりはしない
その人の世界の回廊の奥の
止まり木にとまるのではないかしら
呼べば訪れて
「その時」を何度でも羽博くものとなって



無人の回廊の中の緑の光



こんなことをぬけぬけと書けるのは
私がことばの国の人ではない上に
あたりまえとあたりまえでないことが
とてもねじれてしまっているからです
どれ程否定をつらねてもそれが世界への応答だとしたら
かなりひどい話でしょう?
私の使う納得ということばは
心理学とか思想の下に自分を位置して
納得するというような意味とは少し違うのですが
そう思われてしまうとしたら
私のことばの使い方がおかしいせいで
これが自分ばかりか
人の納得まで損なってしまうのではないかと
怖れる理由でもあります



それでも羽博く応答の一部で
わたしたちは挨拶を交わすこともできます
それが別れの挨拶であることを
悲しむことも
季節を生き延びて欲しいと
哀願することも
人というのは自分では
どうしようもなく
問答無用に
暖かかったりするものですから