卯月の波


                               
年末に職場の近くで学生時代の同窓会があって7人ほどが集まりました。
卒業してから多少の手紙のやりとりはあっても会うのははじめての人達です。
どうして行く気になったのかよくわからないのですが
場所が滅多にないことですが、たまたま知っているお店だったのと
「四半世紀ぶりにあのころの答え合わせをしましょう」という
ちょっとこわい文面のせいだと思います。
答え合わせなんてしてしまっていいの?


実際は全然こわいことはなくて、日本文学科というところにいた穏やかな人達は
穏やかな感じで大人になっているようでした。(本当のところはわかりません。)
私はあまり学校に行かない人間だったので「あのときこうだった」的な話に記憶が
甦ることもあまりなく、一人が撮って来た学校の写真もはじめて見るような気が
して頷いてばかりいたのですが


「あなたは変わらないね」ととても微妙な感じで言われてしまいました。
私はことあるたびに飛び石のように私を渡っていて、いつも次の一歩で私がいない
かも知れないと思ったりしているのに、これはどう考えたらいいのだろう?
地続きの私を持てないと変わることすらできないということだろうか?


そのお店は、銀座のはずれにある、女流俳人のやっていたとても有名な小料理屋さん
です。立ち退きになったのですが、すぐ近くで再開されていました。
俳句をしている地方在住の人にはメッカのような場所なのだ と親子で俳句をしている
という発起人が教えてくれました。 短歌や詩や小説にもそんな場所があるのかしら?


その日、コップに敷いてあった俳句の書いてあるコースターを私はもらって帰ってきて、
冷蔵庫にマグネットで留めておいたのですが、どう考えても座右の銘にはできそうになく、
かといって外すこともためらわれ、持て余しています。


  冬牡丹 きりきり生きることの愚よ   真砂女


呆れるほど意味のないことに対して、今きりきりしなくて一体いつきりきりするつもり
なのかというような波があって、跳び退ってしまうともう戻れません。これが最後の
波だったらどんなにいいでしょう?
明治生まれの女の人はきりきり生きるにしても強いな。そして俳句は肯定するより
他ない短さのような気がして私には一生縁がないような気がします。