うつくしい日本の□□□?



意味を濁らせないこと と去年のはじめに書いていました。
なんて難しいことを。


ときどき趣味のように古典を読みますが、その際、一顧だにしない意味 と
いうものがあるとして、その最たるものが、日本語うつくしい 日本素晴らしい
みたいなことです。


国の名は、地図から最も先に消えてしまうものであるし、国ってどこまで?


古典や日本文学を「普通に」読んで、そこに行き着くには、自家撞着 というか、
どこか強引にある種の想像力や物語を発動させている ということはないでしょうか?


多くのものを読んできたわけでもないのに偉そうに言いますが、日本文学史
最も大きな切れ目は、やはり近代に入って言葉が言葉を意識しはじめてから と
いう気がします。
うつくしさ というのは、言葉の使い手(読み手も含む)が、この世界に言葉を立たせ、
そこから読み取るときの、個々の関わり方にしかないのではないでしょうか?
意識というのは上手くいえませんが、ランドマークなどない、蛇行と傾斜だらけの地平での
言葉自身の立たせ方です。
ただ立ちつくしている 息づき 歩く 踊りだす
それと千年昔の人の詩心に圧倒されたり、語りの官能性や、物語の楽しさに酔わされること
とは関係ありません。



実を言うと、日本うつくしい に至るように読ませてしまうかもしれない と思う
近代人が二人いて、はっきり言ってしまうと折口と三島なのですが、折口は
論証不可の言葉への直感を依り代のようになって伝え続ける者としてある種の
夢を生き、三島は女になって(作中の女によって)繰り返し否定し返しながらも、
そのうつくしい(と思われる夢の)線を最後まで引き続けようとして、結局果たさ
なかった と言う気がします。(果たせなかったのではなく)


どちらも、恐ろしい悲劇性(近代人としての個人の)を感じさせます。


三島は「三熊野詣」という短編で、明らかに折口と思われる人物の物語性を、弟子の
女性を通して徹底的に否定しています。これの収められた「殉教」の文庫解説で、
高橋睦郎は「この意地悪すぎるほど意地悪な短編で、氏の罰しようとしたものは
何よりも、氏じしんに訪れるはずであった老いであろう。」と書いていますが
果たしてそれだけでしょうか?折口自身の古代(日本語)への関わりには、
幸福とは正反対の被支配の気配が満ち満ちているのですが、決して本人がしない
否定を自分がしてやる というか、ある一面に耐えられない ものが三島にあったの
かもしれない などと勝手に思います。
個人に帰する その上にうつくしさも普遍も見るべきでしょう。


ある歌人さんが意見の終わりに付け加えた、「日本という国も日本語も愛している」について
どう考えますか?というコメントを頂きました。
年内にお答えできなかった上、とりとめもなくてすみませんが、こんな感じです。
(私に聞くの間違っていると思います。)