うろうろとしていたところに金柑を貰ったので
手を動かしました。編み物もそうですが、どうして今、こういうことを
するのか、自分でもわからない。それでも手に従うときがあります。
(落ち着くため?考えない為?)





作りすぎ。二人なのに。


朝、浜で拾ったというワカメも一緒に貰いました。
彼女が駅で、手提げから袋を取り出した途端、海の匂いがひろがって
前にいた人が振り向くほどでした。


記憶以外の海をそういえば見ていない。




 ある強烈な体験をして、それを人に伝えようとするとき、私たちは、語りそのものに
なる。語りが私たちに乗り移り、自分自身を語らせる。私たちはそのとき、語りの乗り
物や容れ物になっているのかもしれない

............

 私たちの自己や世界は、物語を語るだけでなく、物語によってつくられる。そうした
物語はとつぜん中断され、引き裂かれることがある。また、物語は、ときにそれ自体が
破綻し、他の物語と葛藤し、矛盾をひきおこす。
 物語は「絶対に外せない眼鏡」のようなもので、私たちはそうした物語から自由にな
り、自己や世界とそのままの姿で向き合うことはできない。しかし、それらが中断され
引き裂かれ、矛盾をきたすときに、物語の外側にある「なにか」が、かすかにこちらを
覗き込んでいるのかもしれない。       
                       岸政彦 『断片的なものの社会学

外せない眼鏡 そうかな? 手を動かしている私はその中にいるかしら?
(たとえば眼をそらす私 という物語の中に?)



生活を楽しんでいる と思われているし、実際そうであると思っていますが
自分の物語に従ったら、生きていることが難しいということもある と
どこかで思っているかもしれないからです。



この本は、今ではないときに読もうと思いました。