6

いったいいつまでこの本について書いているんだ という気がしてきました。
今日でおしまいにします。


作歌法について。実朝は(これほど?)と思うほど本歌取りをした人でした。
定家の教えをそのままなぞったわけではなかった。

まず本歌のうち強い印象をしいる<言葉>が残ってくる。それからあとでその
印象の<言葉>を徐々にじぶんの内心の<調べ>に融かし込むという過程がやっ
てくる。これが実朝の作歌の背後に繰返してあらわれる表現意識の型のよう
におもえる。その融かし込みのなかでいつもあらわれるものは人間の心の動
きでさえも景物のようにみてしまう受身の心であった。(中略)
 同時代の歌学の常識に反して実朝はむしろ一度そういう言葉に動かされる
と徹底的に固執したといってよかった。そこに技術よりも心にしたがう実朝
の感性の基層があった。同時代のどんな歌人も、かれの心の位置にある名づ
けようもない運命の重さをもつことはなかったのである。

(年表によると実朝は14才(数え年)で歌を作りはじめ、新古今に触れ、18才
で定家に合点(歌の評価)と詠歌の口伝をもらい、22才では私本の万葉集
送られています。
金槐和歌集昭和4年(1929年)に佐佐木信綱によって定家所伝本が発見され、
その日付から万葉集を贈られた建暦3年(1213年)12月18日頃作られたとする
説が有力で、今残っている歌は晩年(といっても5年後です)のものではなく、
それ以前のもの ということになりそうです。
定家は30才年下の、この若い将軍の歌をどう思っていたのか、明月記には調べ
方が悪いのか探せませんでしたが、実朝の死後の貞永元年(1232年)後堀河天
皇の下命を受けた定家(71才)が単独で撰した『新勅撰和歌集』には25首が入
集しています。
「華やかな新古今調から一転して平明枯淡な趣向に走り、定家晩年の好みを伺
わせる。」とWikiにはあります。これをどう見るか。
検索して見つけたのは

鎌倉右大臣の歌ざまを見るにぞ道も物うく侍る。おそらくは人丸、赤人の歌に書交たり
とも不恥や侍らんと、定家卿申されためり   『了俊一子伝』)*1


政治的なものではない歌による繋がりであったと言える気がします。



................................................



私はちくま文庫でこの本を読みました。孤独について、ここで言うことはありま
せんが、文庫版のあとがきの

実朝の趣味は和歌をつくるひとすじだった。まるでそうするよりほかないかのよ
うに深入りし、定家におしえられた堂上歌学の方法と、東国武門層のあらえびす
風の習俗とのあいだで、独特の声調をつくりだしていった。大胆な本歌取りをた
くさんやってのけたが、それは本歌取りというよりも、『万葉集』と『古今集』く
の任意の気に入った歌から、上句と下句を自由につなぎあわせて、新しい歌にす
るといった、パズル遊びのようにおもえるときがある。ほかに楽しいことなどな
いのでそうして遊んでいる嬰児の言葉遊びに似ていなくもない。わたしたちはじ
ぶんの体験にひきよせて、そこに実朝の孤独をみつけられそうだが、実朝自身は、
孤独とはどんなことかよくわからない孤独を、体験していたにちがいなかったと
おもう。

というのがいちばん腑に落ちるというか、心に残る気がしました。





ひとりの武門の長が和歌に触れたとき、その和歌は律令制の場のなかで、規範を
細部にまで巡らすほどの変容を遂げていた。そのとき何が起こったか 


和歌のはじめから、鳥のようにその歴史を飛んできて、和歌の背後の「ひとり」
に着地する。理解というのはそういうもので、そして詩人のこの「ひとり」に向
ける眼はとてもやさしい。


そして逆説みたいなのですが、和歌に限らずことばを使うことが、場に居あわせ
ることである という当たり前に、今さら驚くような、
ことばが「そこ」で人を作私する(私すら知らない私を) 
そんなことは吉本は言っていないし、そうではないのだけれどそうであるような
それが私の(歴史というひとことではとても言えない) 「どうしよう」の理由
なのではないか と思いました。(ああ言葉足らず)
                     



                                   

*1:今川貞世(了俊)1326-1420