去年の今日、何をしていたのだろうと思ったら、初蝉を聴いて、八幡宮で梶の葉の
絵馬を見ていました。
どうして願い事を梶の葉に書くのかわからないけれど、「平家物語」の「祇王」に


かくて春過ぎ夏たけぬ。秋の初風吹きぬれば、星合(ほしあい)の空をながめつつ、
天(あま)のとわたる梶の葉に、思ふ事かく頃なれや


と出てきます。(旧暦なのでお盆すぎ)
平安の末期にひとが何を書いたのかわからないけれど、今とそれ程変わらない
のではないかしら。



最後に意味がやってくるまでは (できればこの世を去ったあとがいい。)
耳をすます一瞬ごとがもう意味に他ならないと思っています。
経験主義者で現実主義者かもしれない と自分のことを思っていますが。



会う というのは 一緒に歩くこと。森でもどこでも。
書き言葉の不自由からはなれて、存在と声を頼ること。
「そこまで一緒に行こうか」 と 日常の端っこに繋ぎとめるように  言いたい。