窒息と見紛うような深甚な心痛の表現と、そこに美的調整をくわえてその悲痛が披露される観客を
狡猾とは言わぬまでもちゃっかりと操ることとは、事実、古今東西の文明にわたって、人類という
壊れ、狂った種族のおそらくもっとも典型的な特徴なのである。
                              ゼーバルト「カンポ・サント」

「目眩まし」の作家がこんなことをいっているのを見ました。
これは人はみな悲しみの共鳴板みたいなものを心の底に持っていることに過ぎない気がします。
だれかの悲しみを悲しむことはできないし、その資格のある人もいないけれど。
そして日本語の「かなしさ」というのはそういうものとはすこしちがう。


ネットは共鳴板に溢れていて、同じ板を持っている人同士、反響し合っているように
見えたりもする。鏡の世界の音楽みたいに。