徒然



これほど敷居を低くしても
さいごに書いたことばから動ける気がしないと
書ける気がしません



非現実をできるだけ平坦に見えることばにして
現実に落とし込むようにしたい
そうすることでしか
揺らせない と思ったりはするのだけれど



「炎える母」で覚えているのは、空襲の炎とその後より
田舎から(?)上京したお母さんを見る作者の視線と
気後れしてしまって帰りたい とつぶやいた
お母さんの台詞で  
手元に本が無いにもかかわらず
どんな思いでこれを書いたのかと思うと



ひるがえって 寺山の短歌の「うそ」っぽさについて
短歌の私(一人称)的な性格からすると、演劇的とも見える操作は
「うそ」かも知れない
でも そうしなければどうしようもない なにか
が あるような気もする
くっきりしたものに少しさす翳みたいに
見てしまえば もう「うそ」とはいえないもの



だれかのことばに触れたときの
ことばにおける真実ってなんでしょう?
開示を待つ そうではなくて
美しいも醜いも なくて
そこにあるものを 自分が見るか見ないか 
どう見たいか
それだけではないでしょうか?
(「ことばにおける」 を抜きにしても、嘘はキライと言いながら
本当から逃げる人はいくらでもいます)



じぶんのことばにじぶんがどれくらい
無自覚か ということのほうが 
私にははるかに大変