日記


このブログをはじめるにあたって考えたことは2つあって
一つは 日記なのだから週2回くらいは書けなかろうが何だろうが一行でも書こう ということです。
適当な題がついていますが、一応これは日記です。  http://d.hatena.ne.jp/ta26385/20090522
日記だと思わないことには書けません。
「ちょっと目を離すととんでもないことを書いてそうでこわいよあんたは」ってここを見ている友人はいいますが
私の中では一応連続性があるんです。ある筈です。(ええ私は強情な人間です)



もう一つは全然うまくいってませんが、何だかかつて出会いがしらに恐ろしく蹂躙されたような記憶がある身とすれば
あえてもう一度手に取るからには、ことばに対してだけは躊躇ったり引いたりすることはよそうってことです。
立ってるものは親でも使う(そんなところに立っている方が悪い)くらいの勢いで。
多義性なんて使い倒してやればいいんです。 (うまくいってから言うべきだとはわかっています)
誰かに伝えるためではなく自分のために。



そう、結局は自分のためということになる。
本当の事は瞬間の中にしかなく、あとは全て都合のいいことに改竄され
その本当のこととやらも次の瞬間には変質してしまうというようなものは
何かを伝えるツールとして使えるものでしょうか?伝えていいと思う理由は?
ここをはじめる前に、1分間に100以上も更新される新着ブログの様を見て何だか呆然としたことを思い出します。
人はなんの為に日記を書くのでしょう?
このような場所なら私はことばを捨てられるかもしれないとその時思った筈なのですが



ことばというのは相変わらず私を碌なところに連れて行かないなぁと思います。
わかりきっていてそれを望んだのは自分だというのに
こんなものと馴れ合って踊るなんで冗談じゃない と思ったり
まぁいいや。取り返しのつかない遊びをしてあげる。 
そんなことでもしていないととてもこのときをやり過ごせないと 思ったりもします。



こんなふうに私は今現在ことばを必要とし、それは現実とリンクしています。
日常を恐怖が支え、安定を揺らぎが支えるみたいなやり方で。
有効なことばなんてひとつとしてある筈はないし、安息だってあり得ない。
頼るべきものがくっきりするだけでバランスは崩れるだろうし、現実が動いてしまえば、ことばとの関わりも変わるでしょう。
 (半年続いたことだって私にしてみれば驚異的です。)
それ以前に私が渡りきれるものなのかどうか それまでの期間限定の日記ということになるのでしょうか。